少し自分のことを。

 中学2年の学年末の成績がほぼ中間程度だった私が、3年になってようやくやる気になってきたのは塾の先生のお蔭でした。
 忘れもしない、名原先生と植田先生。

 ちょっと恐い英語の先生だった名原先生と優しい数学の植田先生。お二人のバランスが非常に良い塾で、非常に楽しく勉強していたことを覚えています。その塾には最後まで通い、かつ当時市進と肩を並べていた市ゼミに講習だけは顔を出していましたので、夏休みや冬休みは何と2つの塾をかけもちで通っていました。

 結果、学年真ん中→20番→10番→9番と、どんどん成績は上がり、1学期は学校の先生に勧められるまま、C商科大付属あたりを考えていた私も、かなり強気になることができました。自信がついたのでしょう。学校の先生の勧めも、自分の意にそぐわなければ頑として受付けなかった覚えがあります。

 さて、そんな中、志望校もそろそろ決めなければという頃、私はC東高校を志望していたのですが、あと一歩及ばず、直前に志望を市立C高校に変更しました。

 ただ、やはり私にとって満足の行く志望校ではなかったため、何となく不満気に勉強を続けていました。現在のように学校見学に行くということもそれほど重要視されていなかった頃なので、受験を決めていた私立高校も見学に行くには行きましたが、それほど熱心に見てきたという訳ではありませんでした。

 そんな姿を見て心配したのか、普段何も言わない父が、自分の母校へ私を無理矢理引っ張って行きました。最初は「何をいまさら」と、渋々着いていったのですが、その学校に足を踏み入れた瞬間、「この学校へ来たい」という衝動が私の中を駆け抜けたのです。

 大学と同じキャンパス、校門から続く銀杏並木、3階建ての体育館、東京都の文化財に指定されている記念館、キャンパスの中央には明治から使われ続けているチャペル、その裏には島崎藤村作詞の校歌碑、そして何より文系の学校であること…。すべてが自分の性格・特性にマッチした学校でした。

 「絶対ここへ来たい」
 その気持ちが湧いてから、私の勉強に馬力がかかりました。特に苦手でかつ大嫌いだった数学も、意地になって問題を解いて解いて解きまくりました。

 結果は当然合格。晴れてM治学院高校の1年生になったのです。行きたい学校はM治学院でしたから、合格していたN大習志野高校は当然手続きをせず、市立Cは正直、適当に受験して不合格になりました。
 この後、実に楽しい3年間を過ごしたのは言うまでもありません。

 高校との出会い、それはどこでどう出会うかは分からないものですが、自分だけの世界に引きこもっていたら、恐らくM治学院高校へは進学しなかったでしょうし、M治学院を知りもしなかったと思います。今思えば、その機会を与えてくれた父には感謝するところですが、これも父の出身校だったという偶然の産物。

 お預かりしている生徒達には、進学相談会への参加や学校の先生との懇談など、塾という場でそんな機会を少しでも多く持たせてあげたいと思っています。