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 修身なんて言葉をそもそも忘れていました。

 我々の時代は「道徳」という時間があって、人間教育が少しでもなされていたように思いますが、その道徳の時間に何をやったかはハッキリってほとんど覚えていません。唯一、菊池寛の「恩讐の彼方に」を読んだ記憶があり、あれだけは印象に残っています。

 道徳の時間とは、ほとんどが何かの授業のしわ寄せで「調整」の授業だったように思います。道徳の教科書は毎年きれいなままでしたね。先生たちも何を教えてよいやら分からなかったのではないでしょうか。

 かつての修身の授業では、かなり教訓的なものが教えられていたように聞きますが、それは皇国思想と重なるために復活の議論の余地無しのように思います。が、公立でも学校では「人間教育」をしていました。しかし、今の小中学校では残念ながらそのような教育が出来ません。

 要は、一つの価値観を提示することが不可能なのです。

 日本人は…というくくり方も出来ません。だって、外国人の子どももいたりしますし、そのくくり方に賛同できない方もいらっしゃいます。価値観は多様化し、旧来の価値観の存在は否定しないものの、個人的なものであると認識されているので、公的な場で是とする価値観を提示することは、ファシズムに繋がるともされていますし、多様な価値観を認めないことにも通じるのだそうです。

 まぁ…

 そんなもんじゃないと思いますけどね(笑)
 実は子どもたちは、一つの価値観を求めています。子どもたちと接していると、切実に感じます。価値観が構築できない子どもはイラつき、粗暴になり、勉強から逃避します。理解不能な難関ばかりが出現するのですから当然でしょう。ですから、価値観の提示が我々の最も重要な仕事になりつつあります。

 ただ、公教育というものが、そのような「クレームの嵐」にさらされることで、「公」ではまかないきれないものになってきたのは事実でしょう。これら一つの価値観を提示できないのは、「公」であるがゆえなのですから、この先教育は益々「個人的なもの」に、つまり「私教育」に移行していくように思います。

 修身的な「人間教育」に、「宗教教育」があります。私もミッションスクールの出身ですが、高校での一番の思い出は「礼拝」です。誰が何と言おうと礼拝でしょう。我が校の卒業生はほとんどがそういうはずです。聖書の中のエピソードや賛美歌、そしてあのチャペルでの敬虔な心境。これを分かった上で入学する、そういう「選択」がどんどんなされることになっていくのでしょう。

 修身。
 果たして自分は「身を修めて」いるのでしょうか。実は新作ではなく、旧作の焼き直しと書き下ろし部分のオムニバスのようなもの。しかし、考えさせられるものが毎度毎度多いゴーマニズム宣言。初期からの読者ですが、改めて身を振り返ることになりました。