私は、自分が「知らないことは分からない」という開き直った態度で若い時代を過ごしてきたことを、とても後悔しています。確かに、「知らないこと」を「知れ」というのは無理な話で、知識として持っていないものに触れることはとても難しいことです。

しかし、自分が知らないことに出会えなかったのは、偶然でも他人のせいでも何でもなく、「自分の視野の狭さ」が原因なのだと実感できるようになったのは、ずいぶん経ってからでした。それまでは随分天狗になっていたものだと恥ずかしくもなりました。

今、自分の元にいる若者を見たり、また他所で働く若者を見たり、さらにさらに、その友人のような若者と出会ったり、とかくこの商売をしていると若者に出会う機会が多くあります。先日も私との出会いから、就職前にマレーシアの田舎へホームステイに行った若者もいました。

多くの若者と話をしていると、以前の私のような生き方をしている子もいます。いや、最近増えてきたように思います。知らないのだから仕方がないという開き直り、また広い視点で積極的に情報を取りに行く姿勢も無く、与えられたものだけを確実にこなすことは上手、そんな若者が多いように思います。

受験の世界では、確かにそれで通用します。いや、与えられた知識をいかに吸収できるかだけが勝負だと言っても過言ではありません。しかし、現実社会、一般社会において、与えられた知識を使いこなすだけの人間は、最も使えない人。人間が作り出す世界ですし、現実社会は理不尽なことも、非合理なことも存在しますし、論理的に正しいことが、感情的に正しくない場合も多々あるわけで、それには「正解」がありません。

「正解」を求めようとばかりしている「勉強が出来る秀才」は、「正解」が無い「人生」に躓きます。優秀な学生が、目標の学校に入った時点で「燃え尽き症候群」になったり、「自分探し」云々と称してフラフラとさまよっているのも、ありもしない「正解」を探してのこと。受験が全てだと思ってきた若者には、それはそれは厳しい現実が待っています。

「人生」や「社会」における「解」は、「正解」ではなく、「納得解」です。
論理的に導き出した、頭だけで考えたことなど、この「納得解」にはなりえないことがほとんどです。ところが、最近は私たちの質問に、「正解」を得意げに差し出してくる若者が多く見られるのです。しかも、それを「こうあるべきだ」「こうなはずだ」と、半ば強引に。自分が全てなんですね。これは実に困ったことです。

桜学舎にも、指導マニュアルというものがあります。講師の基本理念と、基本の行動規範です。しかし、マニュアルはマニュアル。どこまで行っても原理原則でしかありません。つまり、こと細かにルールが書いてあるのですが、それをどう運用し、解釈して、方向性の間違いが無い「解」を出すかが、講師一人一人に求められています。桜学舎はそういうところであって、ですから実は職場としては非常に面倒くさいのです。だって、「考えろ」と言われているのですから。

もちろん、おかしなことをしたり、着地点が異なっていたり、結果が悪ければ、コテンパンに責められます。しかし、それがズレていなければ、多少方法論がことなっていようが、現象が異なっていようが責められることなどありません。私達は生徒を育てているだけではなく、講師も育てているのです。講師がロボットやスーパーのレジのようにマニュアルに忠実な存在ではいけません。常に考える人でなければ。

上っ面のマニュアルではなく、そういう「行動規範」に近いものですから、始めたばかりの講師が少々つたない場面も出てきます。それが場合によっては、「あの先生わかりにくい」などと言われてしまうこともあるかもしれません。しかし、講師は優秀です。少なくとも優秀な学力を持った人間しか入れない大学の学生であることが多いので、頭はいいのです。要は、どうそれを使うかです。常に生徒のことを考え、自分の立場を考え、行動規範を考え、自分の力で努力して生徒の成績を上げる。そう育てている講師だから、その完成形は非常に優秀な人間になります。

他塾からやってくる講師は以前から多いもの。様々な塾でのキャリアを持っている講師も多いものです。しかし、桜学舎で使えるかどうかは別です。桜学舎の要求するレベルは非常に高いと思いますし、また無駄だと思わせる部分が全てトラップになっているので、そういうところに敏感でないとやっていけません。

学習を教える知力のほか、社会常識、話術、社交性、状況把握能力、積極的な態度、そして物事を考える能力、そういうものを全て求めます。だから大変なんです。しかし、私はそれでなければ桜学舎には必要ない人材だと思いますし、講師にも成長を促しています。今がダメでもいいんです。人は成長しますから。生徒のみならず、講師も成長してくれるといい、それが私の願いの一つです。