勉強はお嫌いですか?

まぁ、好きではないという人が多いでしょう。しかし、例えばウチの小6は、もう「知りたい知りたい」ばかりで、こちらが閉口するくらいです。確かに、鶴亀算だの平均算だの時計算だのと小難しい勉強を、しかもさほど興味もないのにやらされるというのは、勉強嫌いを作ってしまうかもしれませんね。

しかし、本来はウチの小6みたいに、「知りたい」「教えて!」という風になるのが理想でしょうし、まぁそうあるべきなのでしょう。元々子どもは何でも知りたいものです。だから、幼い頃は、知る事が楽しくて楽しくて仕方なかったはずです。

一体いつから勉強は「苦行」になってしまったのでしょうか。

これは、子どもが悪いわけではないのです。明らかに大人です。
出会って不幸なのは、そもそも学習に対する発想がネガティヴな大人。もう、こういう大人に勉強でも習った日には… 目も当てられません。

本来自分の成長のために、また自分の知識欲を満たすために、そしてものを知ることで自分の成長を促すために、人は勉強するはずなのですが、何か苦しいことや、何かとりあえず達成しなければならない目的のために、手段として勉強するということばかりを強調すると、何のために勉強するのかが分からない、つまりは勉強に何の意義も感じず、何の意味も感じない、単なる勉強作業ロボットが出来上がってしまいます。これじゃ、たとえ偏差値が上がったとしても、何に使えるのか、何の役に立つのかわからない、無意味な勉強になってしまいます。ただ試験に通ればいい、ただいい点数が取れればいい、そんな勉強の虚しいことと言ったらありません。

では、子どもはどうしたらそんなに自分からやる気になってくれるのか。
どうしたら今年の小6のように、知的好奇心の強い子が育つのか。

それはですね、ネガティヴな発想から勉強をさせないことです。
子どもがどうしてやる気になるのか。
叱っても、危機感をあおっても、将来そんなことじゃダメになる…なんて何の説得力もないことを言ってみても、子どもはどこ吹く風です。「あおればいい」というのは、素人の言い草だと私は思います。

子どもがやる気になる瞬間は、すこーしだけ「出来た」時です。
それが長期的な観点から見れば、その場を誤魔化すような根無し草の「出来た」なのかもしれません。しかし、本人は一寸だけ出来たことで、「もう1問くらいやってみようかな?」と思うものです。脳内で「出来たことの気持ちよさ」を感じなければ、人間は「おかわり」を求めることはありません。

ですから、躾と、「やる気」は分けなければ。
ただ褒めればいいとか、ただおだてればいいという話じゃないんです。
でも、いいじゃないですか。本当に分かっていなくても、ちょっとだけ「出来る」「〇がつく」という喜びを感じさせてあげたら、子どもはもう少しやってみようってなります。しばらくやらせてみて、

「実はこういう意味があるんだよ」
「実はこういうルールがあったんだよ」

となれば、知的好奇心も湧くではないですか。

「今の自分でいいと思っているのか?」
「オマエはもっとやれるはずだ!」
「今のお前は、もったいないんだぞ! もっと全力を尽くせ」

そう言って、果たして「今のままじゃいけない」「ボクはもっとできるはずだ」「全力を尽くそう!」と思って、とてつもない好成績になった子は、大変失礼かもしれませんが私のつたない25年の塾歴の中で、「0」です。見事に「0」ですよ。そうじゃない。そうじゃないでしょう。そんなネガティヴなことを言っても、何にもならないと思いませんか。でも、ついつい、お父さんもお母さんも、言ってしまいがちですよね、こういう言葉。

でも、人間は楽しくなきゃやらないのです。
人間は面白くなきゃ集まっても来ないし、動きもしない。これが真理です。

桜学舎は、とにかく勉強が「楽しくなる」ことを第一目標にしています。
百歩譲って、勉強は楽しくないとしましょう。
でも、塾は楽しい。
塾は好き。
そう思って塾で勉強をし、私達の言葉を聞いてくれたら、きっと笑顔の勉強生活が送れるでしょう。

先日いらっしゃったお母さん。
「本当に恥ずかしいんですけど、ウチの子、学校の勉強は殆ど寝ているらしいんです。でも、塾は休まずに行きますし、先生たちの言葉はものすごく影響を受けています」と。学校の授業は聞いて欲しいのですが、私たちの考えが子どもにも伝わっているのを感じます。つまらない人、面白くないこと、楽しくない環境からは、良い「気」が出ていません。ネガティヴなところには、似たような人が集まるというではないですか。

完全に「陽」である桜学舎。
ネガティヴな発想を元にした勉強はやめましょうと、強く訴えたいのであります(笑)