塾には、二種類あります。

一つは「学習塾」です。
学習塾は、その性格によって「進学塾」や「補習塾」と呼ばれることが多く、その用途によって生徒や保護者も使い分けているものです。「学校の成績を上げて欲しい」「○○高校に合格させてほしい」といったような「ご要望」を受けて、そのためにプログラムを組んだり、やらせることを考えたりしますし、その目的のためのクラスが設置されていたりしますから、分かりやすいと言えば分かりやすいですし、そこで上手く行かなければ他の塾へ変わればいいのです。合格請負人的な塾、やっている側からすれば「御用聞き」型の塾がこれにあたります。

もう一つは、「私塾」です。
私塾はそもそも「理念」があり、その理念に基づく教育が行われています。ゆえに、何かの目的のための学習・教育ではなく、理念に基づいて教育が進んだ結果、目的が達成されるというものです。最初に目的ありきが「学習塾」であり、理念に基づいた学習の結果、目的が達成されるのが「私塾」であると、そう私は定義づけています。

では、桜学舎は?というと、もちろん100%そう出来ているわけではありませんが、後者を目指していることは間違いありません。つまり、桜学舎は「私塾」として進んでいきたいと思っています。

では、桜学舎の理念は何なのか? これを端的に一言で表すのは大変難しいことですが、強いて言えば、「当たり前のことを当たり前に出来る子を育てる」ということに尽きます。

これは長いことずっと言い続けていることですが、学生であろうと社会人であろうと、サラリーマンであろうと経営者であろうと、全てに関して「当たり前のこと」じゃないかと思うのです。偉そうなことを語ったり、壮大な夢を描くのも結構ですが、その前に目の前の当たり前のことが出来なければ全くダメなものです。若い社会人でも、将来の夢を語る前に、まず遅刻せず、休まず出社することが第一だと思うのですが、そういうところが出来ない人は意外にいるものです。桜学舎での学習を通して、「宿題をやる」「休まず努力を重ねる」「言われたことこ漏らさずこなす」そういう当たり前のことを身に着けて欲しいと考えています。

そしてもう一つ、「ものごとの本質をとらえられる人間を育てる」ということ。これがなかなか伝えるのが難しいのですが、例えば入試問題において選択肢の見分け方や選ぶ方法を徹底的に身に着けることが果たして正しい学習なのか?ということなのです。入試では役に立つであろうこの能力も、将来にわたって必要な能力では全くありません。なぜなら、大人になって4つ5つある選択肢の中から正解を見つけ、マークシートにマークするという場面はありません。ですが、つい塾・予備校はこういう「必勝法」のようなメソッドに頼りがちですし、生徒もそういうものを手に入れれば魔法のように高校や大学に入れるのではないかと思うものです。しかし、それは果たして自分に必要な「学力」「能力」なのかという「本質」を考えた場合、大いなる疑問を持たざるを得ません。

そうじゃないんだよなぁ… と思うことがよくあります。以前、有名な予備校講師の国語授業映像の一部を拝見した際にも、「『むしろ』があったらそれが答えの可能性が高い」とか、「古文の本文は読まなくてもいい」とか、もう、それこそこういうテクニックばかりで驚いたことがあります。それはそれで否定もしませんし、そういう需要も多いのでしょう。それでいい。しかし、私は桜学舎でそれを追求しているわけではありません。

古文であれば、本文の大意すら分からないのに解答しても「意味が無い」と思うし、英文並び替えが出来なくても、途中の解答欄だけ合っていればいいとも思わないのです。受験だって、「ただ合格すればいい」とも思いません。「出来た感」が無いのに合格してしまうというのは、決してその後の学生生活にプラスには働きません。

教育は財産です。私は自分の親に、「遺してやれる財産は教育だけだ」と言われて育ちました。やはりそういうものだと思います。私は桜学舎の生徒にも、同じ考えで接しています。ご賛同頂けるとありがたく思います。