私は、いろんなことが出来るようになりたい人なんですね。出来ないことが沢山あるので、出来るようになりたいと切に思う人間なのです。

もちろん勉強だけでなく、例えばキッチンに立てば料理が出来るようになりたいし、それも上手にトントンと華麗な包丁さばきが出来るようになりたいし、キャベツの千切りは上手に作りたいし、味付けだって絶妙になりたいわけです。もちろんだからと言って本格的料理修行をしたい訳じゃないのですが、やはりやるからには「上手だね」と言われるくらいにはなりたい訳です。

楽器が上手に弾けたらカッコイイと思います。だからこそ、かなり面倒くさい作業ですし、イライラする作業ではありますが、好きな楽器の練習はしたりします。何度も何度も同じところを弾いたりしますが、あれやこれやとやりながらも練習を重ねます。何でも上手になりたいんです。

でも、中には「出来るようになりたいと思わない」人もいるんですね。
面倒なことはしたくない、出来る限り省エネで生きて行きたい… そんな人もいるんだなぁと感じます。でも、私はこれが学習の原点だと思うし、人間、何かが「上手に出来るようになりたい」と思わなくなった時点で「終了」だと思っています。

上手に喋りたいし、上手に振る舞いたいし、上手に料理したいし、上手に歌いたいし、上手に楽器を弾きたいし、上手に文章が書きたいし、上手にビジネスをしたい、上手に人とお付き合いしたいし、何でも上手に、上手になりたいのです。なにせ今は何でもへたくそなので(笑)

昔、指が短くて悩んだことがあります。私、人よりとても指が短くて、よく「カワイイ手をしている」と言われます。小学生の女子の方がよほど大きな手をしていて、長くすらっとした指を持っていたりします。

そんな時の、我が母の教え。
「手はただあるだけでは価値がないの。その手で何ができるかが問題なの」
我が母は、こういう「教え」を随分と私に与えてくれていると思います。いまだに母の教えは実に正しく、私の価値観の大半を占めるものです。そう、そのちっちゃい指で何が出来るかが問題なのです。

ちっちゃい手で大量の文章を生み出していたり、ちょこちょことギターを弾いてみたり、いろんなことをしています。そう、手で何をするかが「価値だ」と思っているから、大小は関係なくなったのです。

まあ、私みたいなのを「器用貧乏」と言うのだそうですだけど(笑)
上手にいろんなことが出来る人間になりたい、桜学舎はそういう気持ちを持てるよう子どもを「教育」出来る塾になりたいなぁと思っています。