54話の前提として、私はいわゆる平均的日本人レベルで「無宗教」であるということをどうぞご理解下さいね。確かに高校時代はミッションスクールでキリスト教の勉強もしました。しかし、七五三は神社で、葬式はお寺で、クリスマスは彼女と祝い、マレーシアへ行けばモスクへ行って感動する、そんな無節操な宗教観しか持っていない人間です(笑)

さて。

そんな私が一つ大事にしているのは、相反することですが「祈りの時間」であります。祈るというか、何というのでしょうね、感謝の時間というか。これは実は、東京へ来てから大きく変わった生活習慣でもあります。

40歳手前まで千葉で暮らしていた私。実家でしたし、車で30分くらいの場所に塾があって、日々通勤していました。正直、貧乏塾で、一緒にやっていた相棒と二人が食っていければいいくらいの小さな塾でした。いろいろもがいたり、チャレンジしたりもしましたが、あまり実らない時期でした。経営者としては下積み時代というか、もがいた時期でもありました。自分の経営というものが確立できなかったんでしょうね。それなりに楽しかったし、それなりに仕事もしたし、それなりに頑張って来ました。この時代の教え子たちはまた東京の教え子たちとは違った強い絆で結ばれていたりしますから、それはそれで私には貴重な財産なのですが、自分自身の成長という点においては、今振り返ると暗中模索していたなぁと思います。

東京へ来て大きく変わったのは、暮らし始めたマンションの前に神社があったことです。都内でも高名な「根津神社」です。権現造が残る貴重な神社。実は幼いころ祖父に連れられて何度かつつじ祭りに来たことのある神社で、その時の写真が幼少期のベストショットとして(笑)我が家では大事にされています。 そんなことから、私には「根津神社」イコール「お爺ちゃん」だったのです。そんな根津神社に導かれるように根津に暮らし始め、その根津神社で結婚式を挙げ、神社があること、お参りをすることが一つの精神的な安心感にさえなっていきました。

その後引っ越して、生活の根拠も塾の反対側になったのですが、そこでもご縁があり、新居は神社の真ん前。マンションの土地も少し神社からお借りしているような場所ですし、バルコニー前が神社なので絶対に何かが建つことの無い開けた空間。そして境内の緑の借景。そして、学問と芸能の神様という諸条件揃った場所。これもまた導かれるように、販売最後のマンションへ偶然滑り込んだ形で入居しました。妻の地元であるここへ、千葉から引っ越してきて10年、何となく「神社」のおかげを感じながら生きてきたのです。 

これほど神社に縁があるのですから、当然神社へお参りに行く回数も明らかに増えました。何かあると神社へ行き、日頃の感謝を述べ、そしてこれからの繁栄と皆の幸せを祈ります。そう、明らかに東京で過ごす40代は、「祈りの時間」が増えました。以前は初詣と旅先でお参りした時くらいでしたが、何かあるととりあえずお参りに行くようになったのは、大きな変化かもしれません。

もう一つ大きな変化は、「手を洗う」こと。まず家に帰ってきてしっかり手を洗うようになりました。これは東京へ来て、何となく東京って色々なところが汚れているような気がして、まず家の中にそれを持ち込まないようにと手をしっかり洗う習慣が出来たのです。それまでも手は洗ってましたけど、あまり意識はしていなかったように思います。

そんな習慣を持っていた私が、ふと興味を持って手にしたのがこの本。「成功している人は、なぜ神社に行くのか?」(八木龍平/サンマーク出版) 読んでみると、後付けではありますが、この神社の作法に倣ったようなことをしていたんだなぁと、「思い当たるフシ」がいくつも出てきました。手を洗うという行為もその一つで、いわゆる「ケガレ」を払うという効果があるそうで、神社参拝の前にお手水で手を洗ったり口をゆすいだりするのもこの行為。同じことをしていたんだということなんだとか。ふぅん。

いくつか「思い当たるフシ」を。

「御神徳」とは、挫折と後悔から生まれるんだとか。つまり自分が散々な目にあったので、「後の人には自分と同じ目にあって欲しく無い」という思いが「神様の徳」なんだとか。こういう思いを持って、こういうミッションを持って事業を起こしている人が成功するのは「御神徳」と同じ構造を持っているからなんだそうです。おお、これはちょっと当てはまるぞ(笑)

かの松下幸之助も、「感謝と素直」を大事にしたとか。感謝とは「祈り」に通じます。1日の中で「ありがとうございます」「おかげさまで」と祈る、感謝する時間がとても大事なんだなぁと思いました。

「神社とは人々の祈りの集合体」なのだそうです。最初から神様がいるのではなく、人々が祈りの対象を作ることによってその集合体が神様になるんだとか。ふぅん。なかなか今まで思いもつかなかったことですね。そして、希望をすでにかなえている人たちが行く神社に参るのがいいとか。すごく納得したのは、縁結びの神様に恋愛成就をお願いしに行く場合、カップルがたくさんいるところじゃないとダメなんだとか。そもそも、カップルを見て「嫌だなぁ」と思う人は縁に恵まれない… なるほど!その通りだ!(笑) 国会議員を見て「最低な連中だ!」と思ったら、国会議員にはなれない、なるほどねぇ…

私も、神社に何かとお参り行くようになって…
つい先日も、10年の節目に島根県の出雲大社へ「お礼参り」に行ってきたばかりです。二人でお参りして10年、「夫婦の危機」と思えるような大事件も全くなく(笑)、円満に10年が過ぎました。おかげさまで二人で塾を運営し始めて、生徒数も増え、スタッフも増え、会社化して、規模も大きくなりました。ドラスティックな成長はありませんでしたが、ここ10年、一度も前年割れせずに成長出来たのは、もう自分たちだけの力じゃない気がしています。ご支援頂いた方、ご支持頂いた保護者の皆さん、元気に通ってきてくれる生徒の皆さんのおかげはもちろんなのですし、一生懸命働いてくれるスタッフのおかげもあります。もちろん私たちだって必死で努力しました。でも、何だかそれ以上の結果を頂いているような気がしてなりません。「出来過ぎ」感が強いんです。

ふと、ああ、この祈りの時間、心を正しくしている時間のおかげだろうなぁ…
そう思うのです。

くどいようですが、私はどこかの神社の氏子でもなければ、新興宗教の信者でもないんです。ただ、神社に行って、この本の言うところの「祈りの集合体」である神社に、日々の平穏の感謝を申し上げ、これからの繁栄と幸せを祈ってくる、ただそれだけのことなんですね。でも、それで何となく心強くなりますし、安心する。不思議なものだなぁと思うのです。

他の宗教と違って、神道は人間が神様になれてしまいます。湯島天神は菅原道真を祀っていたりするわけですから、人間が神様になれるというのは、とても面白いシステムです。西洋の「一神教」とは異なる、またヒンドゥーのような多神教ともまた違った、八百万の神というか、何でも神様に見立てて祈ることができる、面白いシステムだなぁと思います。しまいには「疫病神」やら「貧乏神」「死神」までいるんですからね(笑)

日本でいう神社の神様は、おそらく「宗教」とも何となく異なる、「祖先崇拝」に近いものがあるんだと思います。日本独特なファジーな考え方の、そしてフレキシブルに対応出来る「神様」なんだと思います。ゆえに、全知全能の神に己の運命を委ね、お願い事をするのではなく、日々の感謝を申し上げる事(場合によっては不平不満を吐き出してもいいのだそうです)、そして安寧を祈る事によって、自分の心や生き方を「正しくする」事が出来るように思うのです。

この10年。
振り返ってみると、私は神社の前で、自らの居所と氏名をまず名乗り、日頃のご加護を感謝した上で、「塾とお店の繁栄、私たち家族一同の健康と幸せ、スタッフとその家族、生徒とその家族、そして私に関わる全ての人が皆幸せになっていきますようお願い致します」と祈ってきました。欠かす事なく、これを全て祈ってきました。

だからというわけではありませんし、他力本願でもないのです。でも、こう祈る事で、自分の心を正しくすることを常にしてきたんだろうなぁと思うのです。残念ながらまだ「成功」はしていないので、まだまだ祈り、精進を続けねばなりませんが、少しずつ前に進んでいるのは「お陰様」なのかなぁと思うこの頃です。