昨今、グローバル化、グローバル化と叫ばれています。
「グローバルコース」みたいな科を設置して、海外との交流を深めたり英語比率を高めたりと、かなり特徴的な学校も増えて来ました。

「グローバルって?」
と聞かれることもあります。
「国際的ってことですよね?」「国際コースってことですよね?」
と言われます。まぁ、ザックリいうとそういうことなんでしょうが、最近「グローバル」という言葉が一人歩きしてしまって、この国際的という言葉がその意味を失いつつあると思います。

以前は、「インターナショナル」という言葉がメインでした。これが「国際」。
いつの間にかグローバル。
はて。どう説明しようかと思う場面に出会う保護者もいるようですが、正しいかどうかはさておき、私は最近こんな定義づけをしています。

「グローバル」という言い方は、世界を一つにしようという考え方。
「ボーダレス」に近い感覚で、世界は一つ、人類皆兄弟、みたいな考え方。だから、発想も、経済も、法的観念も、言語も、みんな「世界は一つ」「みな平等・平和」というような考え方じゃないかな?と。特に経済のグローバル化は、国や政治体制や地域性を超えて一つになろうという考え方のように思います。

それに対して、「インターナショナル」とは、まさに「inter」=相互の 「national」=国の ということですから、それぞれの国の違いや特性を生かした上で、お互いに交流していく立場であるように思っています。それぞれ違うのが当たり前で、違う地域で違う背景を持って現在に至っているのですから、その違いを前提に国と国とが交流していくことのように感じるのです。

もちろん、学問的な定義づけとか、偉い方が「こういう意味なんだよ!」というものとは違うのかもしれません。「ど素人が!」「無知だなぁ!」という方も、もちろんいるんでしょう。すいません。

まぁ、それがわかった上で、あえて言うと、やっぱり私は「グローバル」と言う考え方は「不遜」で「尊大」だなぁと感じてしまうのです。世界が一つなわけがなく、人類が皆平等になれるわけもない(もちろんなれたらそれは幸せなことですが、現実的に厳しいと言う意味で)という前提で、物事を考えていくべきだろうなぁと思ってしまうのです。

豊かな国があれば、貧しい国もある。
自由な国もあれば、自由が制限されている国もある。
平和な国もあれば戦乱が続く国もある。
同じじゃないんですよね。皆。

私は16回、マレーシアに渡航した経験があります。現地に友人もできて、今でもお付き合いがあります。マレーシアで知り合ったフィリピン人の友人ともFBでいまだに交流がありますが、みな考え方も、経済的背景も、自由さも異なります。その上での友人。家族ぐるみで付き合う人もいます。これが皆同じだと言われると、ちょっと「頭で考えた理想」でしかないように思うのです。もちろん、「平和を希求すること」「豊かな生活を送ること」など、一部普遍的な共通概念はあります。ただ、それが「グローバル」か?といわれると、またちょっと違う気もしています。

私は、世界経済を一つにしてしまおうというような昨今の「グローバル」という発想には何となく馴染めないなぁと感じています。経済については正直専門外ですから、違うのかもしれませんが、国際交流やら留学やらといった教育の分野については少なくともグローバルではなく、「インターナショナル」という発想が必要ではないのかなぁと思っています。

そのためには、自国文化についてもよく知るべき。
自分の国のことを知らずに、グローバルだ、インターナショナルだと言っている場合ではないと思うのです。

世は小学生から英語の時代。
4技能英語が叫ばれています。
「読む」「書く」「聞く」「話す」

4年前に桜学舎が「Lepton」を導入した際に、この4技能を訴えたところで、全然反応はありませんでしたが、今や4技能英語のパイオニアと言ったら「Lepton」です。 桜学舎界隈ではどこよりも早く4技能と言っていたはずです。

そんな時代だからこそ、もちろん英語教育も大事ですし、4技能を身につけることも大事。
でも、インターナショナルも大事なんですね。
つまり、あくまで自国の文化をベースとして、 海外に目を向けることも重要。
しっかり今のお勉強もしましょう、日本についても勉強しましょう、ということであります。